やっぱりイベントは良い
2019年10月13日(日)。
今日は「A&G NEXT BREAKS FIVE STARS」(エーアンドジー ネクスト ブレイクス ファイブ スターズ)のファイナルイベント当日だった。
ちなみに僕が一番好きなアニラジであり、同年9月27日をもって4年半もの放送が終了した番組の本当に最後と言える活動でもあった。
予定では昼と夜の2部構成になっていたのだが、運悪く史上最大級の台風の影響もあり夜の1部だけの公演になってしまった幸先の悪いスタート。
以前から夜公演だけは同時に生配信という形でイベントの席が用意されていない人達も見れるようになっていたのが功を奏し、会場に来れない人達も見ることができた。
というかそもそもこれだけの自然災害があり、他のイベントは次々と中止の発表をしていくなかでも準備を進めてくれたことにすごく感謝したしスタッフやパーソナリティの人たちはそんな中で仕事しても大丈夫なのかと不安になるくらいだった。
きっと準備もままならなかっただろうに始まったイベント。
だがこのイベントは思いもよらないくらい見る側の心をつかむものだった。
詳細を事細かに説明しながら自分の思いを書ききることは今の僕には体力が足りない(唐突に書こうと思ったから準備も足りない)ので、全部見終わっての感想しかかけないのだが、彼女たちの楽しもうという心積りも、番組が終わってしまう寂しさも、イベントを成功させようという力強い思いも伝わってくるものだった。
各曜日の帯番組ということもあり、なかなか一緒になることもなかっただろう5人だったが、トークの時間ではその自然な距離感で笑いと癒しの空間を繰り広ろげ、互いに突っ込みを入れたり、「可愛い―www」みたいな褒めてるのかおちょくってるのかわからないテンションでコメントを入れていたりと見ていてとてもほっこりした。
半面、ライブパートでは各々がイベントに臨む気持ちを表に出しながら歌っていた姿が見て取れた。
自分のパートをしっかり歌い切ろうとする子たちにはその上手さに大向こうを唸らせたし、感情があふれて泣きながら歌っていた子たちには思わずこっちもウルっときてしまうものがあった。
パーソナリティの良かったところは書き出せばきりが無くなってしまうのだが、このイベントの良かったところはなにもパーソナリティだけではない。
つい先日まで大雨で道路が冠水してた状態でも機材さんたちが何とかして用意してくれたであろうことがわかるようにしっかりと組まれている会場を見ただけでそれだけで感動だし、ツイッターでフラスタが時間通りに届くかわからなかったけどお花屋さんが頑張って会場内に運んでくれた話に胸を打たれるし、前のイベントからからずっとそうなのだが前振りや企画で名物スタッフ達が全員で盛り上げようとするところもこのイベントもとい番組のいいところだ。
そんな様々な事情を知ったうえで改めてイベントを見ていると、もうただのオタクの僕には「ありがとう…!、ありがとう…‼(震え声)」という言葉しか出てこない。
つまりはとてつもなくエモい現場だった。
毎週楽しいラジオを提供してくれた5人のパーソナリティや、毎回面白い企画で楽しませてくれたスタッフの人たち、今回のイベントを台風の中でも準備してくれた人たちにはこんないいイベントを作ってくれたことに本当に感謝の言葉しか出てこない。
これから5人(+スタッフ)が集まってのお仕事を見られることはもうないのかもしれない、
しかし、配信が終了間際に流れた公式からの「それじゃあ、また。」という言葉に期待を込めて僕もこう返そうじゃないか。
「また、楽しみにしています。」と。
ニッチな趣味のひとりごと
突然だが、僕はたまに本を読む。
誰に言われたわけでもないのに本を買って読むことがある。
しかし全部読むわけじゃない。
途中で読まなくなったりする。
買っただけで満足して読まない本もたくさんある。
別に読書が趣味ってわけでもない。
本を読むくらいならスマホを弄ってたりゲームをしていた方が楽しい。
読書の優先順位なんてかなり下の部類だ。
それでも、本を読むことがある。
ジャンルに一貫性なんてない。
文庫も読むし、小説も読むし、エッセイも読むし、写真集も見るし、ビジネス書も読むし、自己啓発の本も読んでいたし、専門書だって読んだりもする。
なにかが気になったり知りたくなった時に本を読んだりする。
最初はネットで調べていたけど、ネットの記事はだいたい同じようなことしか書いてなくて、それだけじゃ足りなくなってくると本を買った。
かといってすべての本がネットの記事よりも優秀なわけではなくて、たまにこんなので金とるのか?みたいなものもあったりする。
それでも、会うことも無いような人たちの考え方が知れるのはそれだけで価値のあるものだと思う。
いまだとSNSだったり動画で発信している人も多いし、そこから情報を収集できたりもするので、本を読むことは現代ではある意味コスパが悪いのかもしれない。
そ
れでも、何故か本を読むことがある。
最近になって気づいたのだが、良い本が必ずしも売れるとは限らないということだ。
むしろ良い本はあまり売れなかったりすることが多いような気がする。
実はいいこと書いてあるのに、とか
凄い熱量で書いてあるのに、とか
そういう本はあまり売れない。
ふわっとしてるけどなんか話題になったもの、とか
有名人が書いたタイトルのかっこいいもの、とか
そういうのだけ売れる。
努力すれば報われる論はあまり好きではないけれど、いい本はもっと評価されてもいいべきだ。
知ってもらいたい本がたくさんある、のに知られずに消えていく本たち。
しかし、こういうことは本に限ったことじゃない。
物だったり、仕事ぶりだったり、作品だったり。
もっと知ってもらえていれば続けていたかもしれないのに、姿を消していったものやことはいっぱいある。
でも売れなければ、どんな人もどんなものもダメな扱いになってしまう。
ちょっともったいない。
だから自分の中で「良い」と思ったものは、少なくとも自分は評価してあげた方がいい。
できれば発信してあげればいい。
それだけで日の目を見るのかもしれないから。
■
丁度今、友人とアニラジの話をしていたのだけれど、その時に興味深いことを言っていた。
「このパーソナリティはトークを受けるのがうまい。」
話題になっていたアニラジはパーソナリティが2人で、男女でやってるラジオだった。
上の発言は男パーソナリティに向けた言葉だった。
言われてみると相方の自由な小ボケも毎回拾うだけではなく、時には乗っかり。時には引いたりと言葉の駆け引きも絶妙だった。
ただ僕が興味を持ったのはパーソナリティの良さに気づけたことではなく、友人の着眼点が僕にはないものだった、ということだった。
人は‘‘なにか‘‘に対して能動的なものを注視するが、受動的なものに対しては前者よりも意識することが少ない。
しかし、彼はパーソナリティの「トークの受け」という受動的な部分に価値を見出していたのだ。
僕もアニラジをよく見るのだが僕が好きなのはパーソナリティの人が相方やゲストの人を引っ張っていくものだったので見るのはきまってパーソナリティが能動的なラジオだった。
野球で例えるならば、投手の素早いストレートやキレのある変化球にばかりに目が行ってしまい、捕手の配給センスには見向きもしてなかったのだ。
どちらかだけを見続けても良いとは思うのだが、やっぱりどっちも知ったうえで見た方が試合は面白くなるだろう。
これからは僕も「受け側」の側面からラジオを見てみることにした。
ちなみに話題にしていたラジオは超!A&G+の本渡上陸作戦でほめていたパーソナリティは天津向さんでした。
気になった人は月曜21時30分からなので見てほしい。
アニラジ、、、もっと流行れ!!
日本人は反脆弱性の人が多い(気がする)
日本人は反脆弱性の人が多いような気がする。
そのまえに反脆弱性ってなんだって話だ。
脆弱性はサイバーセキュリティの用語で安全性上の弱さを表す言葉なので‘‘反‘‘脆弱性とはその反対の意味になりそうなものだが別にそういうわけじゃない。
どちらかというと「反」と「脆弱」と「性」がそれぞれが独立しているような意味合いだ。
まず、「反」は反対意味。
次に、「性」は性質を持っているという意味。
そして、「脆弱」とは文字通り弱くてもろいという意味でその対義語は「強靭」だ。
ここで問題なのだが、強靭とは強くてしなやかという意味なのだが、本当にそうなのだろうかと考えたおっさんがいた。
「脆弱」を(外部からの力で)弱くて脆くなってしまうものと定義するなら、その反対は(外部からの力で)強くなったり成長するものではないだろうか。
つまり反脆弱性とは「外部や圧力によってパフォーマンスを向上させる性質」という意味を持ったどこかのおっさんが作った造語だった。
そのことについて書いてある本をしっかりと読んでないのでよく覚えてないけど。
確かそんな感じ。
で、ここからが本題なのだが日本人は反脆弱性な人たちが多くいるのではないだろうか。
というのも、今の日本社会はあまりにもストレスがかかりすぎている気がする。
会社員の多くは大してやりがいの無いような仕事に問答無用で残業を強いられ、部下のモチベーションを下がるのを分かっていて怒鳴り散らす上司もわんさかいるし、首都圏なんて人口密度が高すぎてそれだけでストレスがやばいのなんのって話だ。
もちろん、日本の文化は他の国にはない素晴らしさがあるし、日本の文化が好きだからと海外から勉強しに来る人だっているくらいではある。
しかし、利便な文化にはいろんな人の(膨大な)作業によって成り立っているわけだし、日本大好き海外の人でも「ここじゃ働きたくはない」なんて言われてしまうのだ。
なんで日本人は日本人を苦しめて生活しているのだろうか。
もしかして日本人は反脆弱性の人が多いから・・・?
たしかによくよく考えると日本は厳しい上下関係がある。
上司の監視によって部下を動かす雰囲気があるし、なにかと命令口調が目立つ。
本来、自分のできることを依頼されてそれをこなすと報酬がもらえるのが仕事だと思うのだが、日本の仕事は上の言うことを聞いていると報酬がもらえるといった雰囲気がある。
だから日本の企業でのお偉いさんには仕事ができるとはいいがたいような人もわんさかいる。
仕事ができるから評価されるのではなく、言われたことをやり続けたことに評価される、というなんとも気持ちの悪い違和感みたいなものがある。
この違和感というのはなにも仕事だけではない。
例えば「部活(運動部)」なんかもそうだと思う。
ある種目を通じて自己の研鑽だったりスキルの向上が目的だと思うのだが、部活はクラブ活動よりも本来の種目以外のことに厳しいようなイメージがある。
これができなかったら校庭10週とか、忘れ物したら片付け全部やるとか、人にあったら誰であろうと絶対に立ち止まって大きな声でする、とか正直よくわからないルールみたいのを強要されてしまう。
そしてそういった謎のルールが厳しい学校の方が強かったりする。
クラブ活動はすべてがそういうところではない。
だからといってクラブ活動をしている人の方が劣っているなんてことは全くなく、僕の中では部活で育った子はさっぱりとしている印象の子が多かったイメージがある(ちなみに僕は部活動の人だった)
なにもこれらは特定の事象ではなくて日本においてはあまりにも当たり前の光景なのである。
こんな風潮が当たり前になってしまうのは、日本人は強いストレスに耐えられる力とそれを力に変える力がある故なのだろうか。
そうなるとやはり日本人は「外部や圧力によってパフォーマンスを向上させる性質」を持っているのだろうか。
日本人は「反脆弱性」を持つ人種なのだろうか。
ただ、たとえそうであったとしても僕はこんなストレス社会まともに向き合ってられないので、明日の仕事もそれなりに頑張るくらいしか思えないのだが。
すべきことなんてなんにもない話
今の日本は結構平和だ。
一応民主主義として四民平等を謳っているだけあって食べていけなかったり好きなことだってやろうと思えばできる。
昔のような封建制でもなければ荘園制でもないし、この国には戦争がない。
何かをやらなければ生命が脅かされることなんて殆どない。
だからか今の日本は何にもしなくても生きていける。
すべきことなんてなんにもない。
健康に気を付けなくても医療サービスは優秀でなんだかんだ病院が面倒見てくれるし、勉強しなくてもできる仕事は沢山あるし、なんなら今は会社に勤めなくてもいいようになってきてるし。
世の中を窮屈に思ってる人も多いのかもしれないが、自由と言えば自由なんだろうと僕は思う。
だったら、今やるべきは自分の好きなことじゃないだろうか。
親に心配されようと
先生に何を言われても
会社でどんなに怒られようとも
自由に時間を使えるのに自由に使わないのはあまりにももったいない。
歳をとってからからじゃ遅い。
エネルギーがあるうちにやるべきだし。
作業よりも優先してもいい。
自分を豊かにするのはどちらか考えてみればいいし。
恥なんて思いっきりかいてけばいい。
恥が怖くてしたいことができないようじゃもったいないし。
いつ死ぬかもわからない。
輪廻転生なんていうけどほんとに転生するかはわからないし。
そもそもこの国は無宗派だらけだし。
・・・っていう本を最近読んだ。
気取ってんな。
でもこれで売れるんだもんなー。
って思った。
これを僕が書いても大して見られないだろうが、有名人が書けば何万部って売れるらしい。
やっぱ一番簡単にお金をもらえるのは人からの認知による影響なんだろう。
まぁ有名になるまでが大変なんだけど。
ただ、好きなことをやればいい。というのは同意しかないので、僕も有名になれるくらいに好きなことをやろう。
そんなことを考えながら今日もラジオを聴く。
アニラジの新しい在り方について
これからアニラジはどのように変化していくのか。
こんなことを考え始めたのは仕事の移動中からだった。
アニラジを聞こうと「超!A&G+」のアプリをスマホで開こうとしたら丁度山への登り口だったらしくなかなか起動してくれない。
A&Gアプリ重っっ!!
とか思いつつも、割といつものことなので「音泉」のアプリで番組を視聴する。
・・・
そういえば、なんで山中で音泉は聞けてA&Gは聞けないんだ・・・?
アプリにかけてるアレが違うのか?
っていうかアレってなんだ?
そんなこんなでこうして記事にしようと現在に至るわけだが。
しっかりと調べていないのであまり信ぴょう性に欠けてしまうのだが、超!A&Gと温泉の違いはおそらくアプリの性能差なのだろう。
A&GはWindowsに最初から入ってる再生アプリみたいな感じがある。
ちょっともさっとしてるあいつ。
もし違ってたらごめんなさいだ。
それはそれとして、番組を調べていた時間接的にラジオの歴史みたいなものも目に入ってきた。
結構アニラジの歴史は長いみたいで始まりは1960年代だったらしい。
そんな前からアニメってあるんか、
それじゃあこれからも滅びない限りラジオは進歩していくよね。
どんなふうになるんだろう。
なんて考え始めた結果、冒頭の「これからアニラジはどのように変化していくのか。」という問いにつながっていく。
僕はアニラジが今一番好きなことなので好んで聞いているけれど、正直アニメやゲームのおまけみたいな感じだと捉えてる人がほとんどだろう。
そもそもアニラジの存在自体を知らない人の方が圧倒的なんだろうが・・・
世間一般がどう思おうが(もしくは知らなくても)僕がアニラジ好きには変わりないので廃れてはほしくない。
ただYouTubeなどの最近流行りの動画サービスと比べるとラジオって昔っぽくて動画ないし、あってもなんか重かったり画質荒かったりするし、なんか響きもダサいし(偏見であってほしい)だんだんと先細りしてしまうのかな、とか考えるとなんだか不安になってくる。
果たしてラジオもといアニラジは消えゆく運命なのか。
まず日本の広告費での売り上げを見た場合(2016 ~2018 )、テレビ1.9兆、新聞4700億に対しラジオは1200億で、これはインターネットの普及で現在の経営が厳しいともっぱら噂の雑誌事業よりも低い値になっている。
インターネットラジオが誕生したことで、ラジオを作るのが比較的低コストで、番組配信ができるようになり、スポンサーの広告費が必ずしも必要ではなくなってきてはいるがそれでもいかにラジオが小さなメディアかがわかるだろう。
これだけならラジオが危うい境遇に立たされているように見える。
しかしここで一度ラジオ在り方を変えている。
スポンサーからのお金に頼らなくても番組ができるようになり、ラジオの集金方法はスポンサーからリスナーに変わっていった。
いわゆる「有料会員制度」と「イベントおよびイベント物販」である。
インターネットラジオの多くが有料会員制度を取り入れている。
リスナーが任意で受けられる月額性のサポートで、有料会員動画やイベントのチケット優先権などが主についてくる。
イベントは会場を借りてそこでライブやトーク、公開録音を披露する場になる。
売り上げになるのは主にイベント物販の方で、どこかで聞いた話なのだが、イベントの席を埋めてもトントンなのだが、物販の売り上げは仕入れた額から差っ引いた額がまるまる収益になるので効率がめちゃめちゃいいらしい。
例えば、イベントTシャツと称して3000円で売っているが1000以下で作れるので1枚ごとに2000円の売り上げがでる。
会場と同じだけ作ってそれが売れた場合、2000×数千席でいい感じなのだという。
ただ、それでもラジオの集金方法が変わっただけで、ラジオがもっと大きな存在になるためにはまだ足りない。
ならば、これからどう進化していくべきなのか。
僕の考えた一つの答えとして、ラジオを新しいフォーマットとつかってより砕けた内容で行ってみるというのがある。
今ならばYouTubeなどの人気動画サービスを使うことだ。
ほとんどのラジオは各々のサーバーを使って配信をしている。
しかし、それでは見る人はそのラジオを知っている人だけだろう。
より多くの人に見てもらいたいのであればより大きなフォーマットを使うべきではないだろうか?
もちろんYouTubeの制限下に置かれてはしまうが、母数が大きい分見てもらえる期待も大きくなるのではないだろうか。
もう一つの砕けた内容だが、構成をほとんど無くしてパーソナリティにずっとフリートークをしてもらったりコメントをその場で返す形式にしてみるという意味だ。
最近ではライバーと呼ばれる人が人気だという。
ライバーとは主に生放送をして収益を得ている人たちのことで配信のスーパーチャットや配信時に紹介した商品をアフェリエイトして稼ぐということをしているらしい。
いうなれば生放送版のユーチューバーみたいなもんである。
気軽に配信できる環境が整ってきたためか、生主とリアルで時間を共有できるようになり、バーチャルなキャバクラみたいなのりが見る側の心をぎゅっとつかむのだという。
今までのラジオはパーソナリティ(ここでは声優)が、本業をする時にはない自分に話しかけてくれるような生感だったり、自分のメールを読まれることでパーソナリティと意思疎通が取れることが売りだったので、その距離をぐっと縮めることで更なる人気が出て来るのではないだろうか。
とこれまでが一般人の妄言なのだが、結局僕にできることなんてラジオがより人気になってくれるようにと祈りながら聞き続けるだけなので今日もラジオを聞いていこうと思う。
終わってくコンテンツが好きな人間とは
僕はどうやら終わっていくコンテンツが好きらしい。
どういう了見かは全くわからないのだが、僕が興味持ち始めるとどんどん終わってしまう。
趣味でよく聞いているラジオ番組なんか特にそんな感じだ。
「これおもろいな、よっしゃ聞いたろ。」
なんてワクワクしながら来週の回を楽しみに待っていると唐突にそして淡々と告げられる‘‘大事なお知らせ‘‘の数々。
見始めるタイミングが悪いだけなのだろうが普通にショックだ。
これなんて罰ゲームなの?
あまりにも多いので逆に僕が悪いのではないかと思ってしまう。
僕が見たから終わったんか?
僕はコンテンツキラーだった・・・?
ちなみに「コンテンツキラー」本来の意味は全く違うのでただの誤報でしかない。
ただ言ってみたかっただけだった。
そんなことはどうでもよくて、こういったことはラジオに限らずアニメだったり、動画だったり、僕の見始める娯楽は結構な割合でその活動を終了させていく。
最高潮を経験して成長した人たちの貫禄が好きだったり、
終わることを知ったことでコンテンツを提供している側の人たちにはある種の緊張感があって真剣みが伝わってくるから好きだったり、
終わりを僕が実感することで自分の中にストーリー性を作ってしまっているから好きだったりするのかもしれない。
それとも心理的な要因なのだろうか。
考えても答えなんて出てこないわけで。
気になってみたのでちょっと調べることにしてみたが、そもそもなんて調べればいいのだろうか・・・
流行りに疎いってことなんだろうか?
とりあえずそれっぽく探してみたがどれもピンとくる答えにたどり着かなかった。
ということで、最近の疑問がまた一つできました。
なにか知ってる人がいたら教えてください。
ちなみに逆の人たち、いわゆる「流行に乗っかる人系の特徴」は沢山記事になっていた。
どの記事も批判気味に書いていたが、でも一番脂がのっている時に楽しめるのはそれだけでいいことなんじゃないか?なんて僕は思ってしまうけど。